田中洋太の
ミュージシャン・楽器型人間特性
フルオーケストラ ミキサー アコーディオン ハーモニカ ヴォーカル(人声) ギター 指揮棒 ハープ テューバ トロンボーン トランペット ホルン ファゴット(バスーン) クラリネット オーボエ フルート ピアノ パーカッション コントラバス サクソフォーン
チェロ ヴィオラ ヴァイオリン

フルオーケストラ これもまたひとつの複雑で大きな楽器である、と言えば 各奏者に失礼に聞こえるかもしれないが、我々は皆それ等の約束事を 分かりつつ日々を暮らすミュージシャンである。 子供の頃、各々何かの機会にミュージックに触れ、その世界に 引き込まれ、それを一生の道として選び(あるいは選ばれ)、 明けても暮れてもそればかりやっているのだから、そういう我々は 皆生前・死後までを含めて「ファミリー」と思わねばならないだろう。 「ファミリー」の中には、どうしても対立する者、 どうしても気の合わぬ者もいる。どんな家族にても多かれ少なかれ あるのと同じ事である。人間社会をひとつの町として捉えると それはひとつの家だろうし、人間社会を全世界とすれば、 それはひとつの国、『ミュージックの国』だろう。 私はその国に住むミュージシャンである。 良い事も悪い事も、考えたり言ったり行なったりする、ひとりの ミュージック・コンポーザーである。 そんな私と同じく、良い事も悪い事も考えたり言ったり行なったりする 様々なミュージシャン達のありのままの姿を、さらに楽器型人間特性 の考察として、「拡大解釈」を交じえながら続けて御紹介したいと思う。 改めて御断わりするまでもなく、これは当然、 偏見に満ちたものになるだろう。こう書くと、私の回りのミュージシャン達は みんな警戒して貝のように口を閉ざしてしまうのではないかと思われるかも しれないが、そんな御心配はいらない。 我々ミュージシャンは口が軽いからである。
ミキサー 野菜ジュースを作るミキサーや、コンクリート・ミキサー車のことではない。 これは、サウンド・ミキシング・エンジニアの略称である。 彼の楽器は何だと聞かれたら困ってしまうが、皆さんもレコーディング・ スタジオのミキシング・ルームの卓(スライド・レバーやスイッチ類が無数に 並んでいる機械のこと)の前に座って両手を忙しく動かしているミキサーを 見れば、ああこれは彼にとっての楽器みたいなものなんだナ、という事を 感じられると思う。実際レコーディングに於いてミキサーはもう一人の重要な ミュージシャンである。気心の知れたミキサーは、あれこれ言わなくとも、 作・編曲者、指揮者(ディレクター)のイメージする音楽を音響として キャッチする。そして、ミュージックの出来・不出来に、我々といっしょに なって一喜一憂するのだ。 前述のテューバの項で触れた、L.A.フィルハーモニックとのレコーディングの時、 3時間のセッションを共にしたミキサーは、筋骨たくましい白人好青年だった。 いよいよ大詰め、最後のテイクを無事終えたと思った瞬間、私の指揮棒が、 マイクスタンドの先に当たって、「カーン」と鳴った。 鳴ったのはマイクスタンドの方かもしれない。とにかくやってしまった。 思えば、話は前後するが、私はアコーディオン奏者の「ンガッ!」をあれこれ 言えないのだ。これは大編成のレコーディングで、やり直しというからには、 何故?という部分が嫌でもクローズ・アップされてしまうだろう。 ミキシング・ルームの方を見ると、ガラス窓越しにミキサーが椅子から ズリ落ちつつあるところだ。その筋骨たくましい両腕をワーッと挙げて、今 ミキシング卓の水平面下に沈んで行きつつある彼はしかし、好青年であった。 やがて気を取り直して「O.K. O.K. あとはこちらの処理で何とかノイズ を消してみるヨ」と言ってくれ、そのテイクは事無きを得、 採用となったのである。 ところで後日、日本のスタジオでも同じことが起きた。この時の原因は私 ではなく、ベース奏者の「バチッ!」というものだったが、私は経験から、 「大丈夫、大丈夫。あっち(ミキサー)の方で何とかしてくれるから」 と笑っていた。こちらはがまん強いベテラン・ミキサーで、 「えーっ、何とかならないよオ」とブツブツ言いながらも、結局何とか してくれた。 あらゆる各楽器の奏者どうしが、世代・国境・人種を超えて確かに 似通って来るのと同様に、もうひとりのミュージシャンであるサウンド・ ミキシング・エンジニアも又民族・言語等の相違を越えて、何とはなく 相似性を帯びてくるものである、と私はにらんでいる。
アコーディオン 旧型アコーディオンの鍵盤からパッと勢いよく手を離すと、「ンガッ」 という音がする。この「ンガッ」にまつわる経験談をお話ししようと思う。 あるTVドラマの音楽をレコーディングした時、私はまたもや 先輩作曲家がやっていたのを参考にして、「隠し味」で アコーディオンを入れた。このドラマ音楽のレコーディングをL.A.で やったので、スタジオに当日現われたのは、初対面の演奏家だった。 その堂々とした女性演奏家は大きなアコーディオン(旧型)を両手に ひとつずつ抱えてゆっくり入って来た。 非常に心のこもった演奏が展開され、「ああこれでうまくいった」 と最後のフェルマータの和音が終わった瞬間、「ンガッ!」という 音が入った。みると、アコーディオン奏者の右手が鍵盤から30cm 上がった所で鷹の爪のような形のまま固まっている。 シーンとした静けさの中で私は考えた。 「彼女はおそらくスタジオの仕事に慣れていないのだろう。普段、 クラブ等で演奏しているのかも知れない。だからあのンガッ! というのも許容されているのに違いない。しかし困った。 他の奏者達は皆スタジオ第一線のメンバーだ。演奏もうまく行った。 しかもこれは同録(全員が一斉同時に演奏録音する事)だ。 ああどうしよう」 私は黙って、もう一度のサインを出して最初から始め、そして最後に やはりあの「ンガッ!」を聴いて終わった。 私はさらに考えた。「あれは彼女のクセだ。しかもすぐには治らぬ クセに違いない。彼女が熱心に演奏すればする程、激しいンガッ! が最後に入るだろう。さあどうする、如何に私と他の演奏家達が にこやかに辛抱強くテイクを重ねても、おそらくンガッ!は入るだろう‥」 そしてついに私は一計を案じてテイク4をスタートさせた。 演奏は良かった。問題は最後だ。いよいよその最後のフェルマータの 和音が鳴った時、私は、彼女の方に背を向けて、他のメンバー達だけに 終止の合図を送った。つまり彼女のアコーディオンの音を切らずに おいたのである。 音はあたりを見渡すかのようにして、自然に消えた。 かくして、無事にテイク4は「ンガッ!」をまぬがれたのだった。 レコーディングが終わり、「お疲れさま」を交しながら、私はメンバー から、密かにガマン強さを賛えられ、彼女は、大きなふたつのアコー ディオンを抱えて、機嫌良くスタジオの通路をゆっくりと歩み去った。 私の漠然としたアコーディオンとその奏者に対するイメージに、 上記の経験は大きな影響を与えて今日に至っている。
ハーモニカ ハーモニカというと小学校の校庭と「音楽室」を連想する。 かつて、そこで吹きまくったからである。 といっても我々が普通吹いていたのはメロディーだけが鳴る ものだったが、世の中にはコード(和音)ハーモニカ 及びベース(底音)ハーモニカというものが存在する。 先輩作曲家がやっているのをみて、これを三種類合わせて、 歌の伴奏でレコーディングした事があるが、私の主張では これはシンセサイザーよりも面白い。 何しろ息が吹き込まれる時の派生音がどうしても聴こえるし、 時々不意に音がカスレるのが又心地良いのである。 この楽器と奏者は、これ等の特性を許容しているのだ。 こういう事を言うと、マニアックとか、古いとか何とか ケナされるかも知れないが、 「ミュージックは古ければ古い程、人々の耳に慣れて いればいる程、その効果を発揮する」とかのゲーテも言っている。 要するにこれは好みの問題だ。 つまり私はだんぜんアコースティック派である、というだけの事 なのだが、ハーモニカ奏者が大きく息を使いながら(実際 ベース・ハーモニカやコード・ハーモニカは大量の空気が 送り込まれる事を要求する)リズムや和音を吹き鳴らすのを聴くと、 顔を紅潮させムキになって吹きまくっていた校庭や「音楽室」が オーヴァーラップして来て、なんだかうれしくなってしまうのであります。
ヴォーカル(人声) 当然の事だが、ヴォーカリスト(シンガー)の楽器は自分の体である。 音の鳴る部分は主に声帯だから、「常に楽器を呑み込んだ状態の ミュージシャン」と云えるだろう。 しかし、ミュージック全体の中の重要な一部分である筈の歌は、 言葉・その他モロモロと結び付いている故に、過度に全体を支配しよう とする傾向がある。 ソロ・シンガーというものは、バックを従えて、というスタイルに 慣れてしまう為に、ピアニスト以上にプリンス・プリンセス状態のまま 猛進しやすい。(現にそういう名前の歌手がいるではないか) 作曲家以外に、これを統御する者はいない。 がしかし、昨今は自分で作曲・作詞も全部やってしまう シンガー・ソングライターが星の数ほど多くなって、こうなるともう 「アーティスト」たちは殆ど自分の世界に閉ざされて、歌もまた ミュージックの一部なのだという事を応々にして忘れてしまう。 歌が本来、広大深遠なミュージック全体の中の一部だという事を 忘れてしまわないように、シンガー・ソングライターであっても、 ある時は単純にひとりのヴォーカリストになってみるのも 「何かというと歌ばっかり」という現状の中では良いことだと思える。 鳴っている時の楽器(声)というものは、先ず何よりもその「鳴り方」 が第一に問われるのだから。
ギター ギター奏者及びギターの形態の多様さは今日の ミュージック・シーンに於いて殆ど目を疑うものがある。 しかしよくみれば、6本の弦(低弦からE・A・D・G・B・E) が張られている、要するにギターはギターである。 ソリッド(胴がふっくらしていないもの)であろうが アコースティックであろうが、エフェクターがどうで あろうが弦を指またはピックで弾くしかないことに 変わりはないし、染めた金髪をなびかせていようが ホワイトタイにテイルコート着用であろうがギター奏者に 変わりはない。 イナズマ型の彩色板のようなものに6本の弦が張ってある ギターの場合、奏者も当然光りモノの付いたシャツにヘビ皮の靴、 あるいは半裸体ということになる。これは楽器が奏者に 侵食したのだろうか?なお考察の余地を残す。 一方、その対極にあるクラシック・ギターの場合は、 明らかに楽器が奏者に侵食し、力を及ぼしているのが解る。 先ずギターを抱えて奏者が静かに登場すると、舞台中央の イスに座る。そして片ヒザを上げてギターを支える。 楽曲は宙に浮くような格好で中心に位置し、 「さあ上手にワタシを御弾き!」と云っているのである。 奏者はややかがみ込み、細心に指を動かして、一心不乱に 楽器を鳴らせ歌わせることに専念する。 基本的にソロ楽器(ベートーヴェンは「ギターは小さな オーケストラだ」と言った!)であるクラシック・ギターの 奏者には、自己完結的でもの静かな、ソッとしておいた方が 良さそうな人が多いように思える。そういう奏者なら私も知っている。 しかしイナズマ型及びそこにいたる中間型の楽器とその奏者については、 これから実際にセッションして観察するつもりでありマス。
指揮棒 これはどうみても楽器とはいえない。音を出さないからである。 しかしこれを持って頼みとする指揮者にとっては、ミュージックの現場に 無くてはならないものだ。 そして指揮棒を握った時、その指揮者の人間特性が見事に露見するのである。 古今、我々ミュージシャンの間ではよく知られ、半ば常識化した話である 名物指揮者の人間特性の数々も、広い一般社会の多くの人々にとっては 「エッ」と驚き、ア然とするに値する事ばかりであろう。 かく言う私自身も成りゆきで指揮をする身であって、まことに恥多き 人生を歩んでいるのだが、ひとまず自分の事はタナに上げて、 生前のある名物指揮者が指揮棒と一体化した時どういう事が 起こったのかを、広く皆さんにお知らせしたいと思う。 まずはその登場から。 マエストロY. は小走りに指揮台に向かって来る特性があった。 あるコンサートの時、いつものように観客の拍手に迎えられて小走りに 勢いよく登場したマエストロは「ピョン」と飛んで指揮台に乗ろうとしたのだが、 勢い余って、指揮台を飛び越してその向こう側に着地してしまった!…… そして演奏が始まる。ミュージックが盛り上がり熱情が高まった時、マエストロ は両腕を振り上げ、体をのけぞらせた。しかしそのハズミで指揮台から後ろへ落ちて しまった。もちろん、客席へと落ちたのである。 ある木管楽器奏者は、顔を上げて見た時思った。「あッ、いない」 それでも演奏は続く。ややあって、客席へ落ちたマエストロY.は、舞台へ登って来た。 指揮をしながら、つまり両手を振りながら、登ってきたのである! この話をミュージシャン仲間から聞いた時私は、指揮者というものには (どのような形であれ)意欲というものが満ちあふれているんだなァと思ったが、 私にはマエストロY. が普段の日常生活で指揮棒と離れている時、いつも そのようであったとは考えられない。指揮棒を握った瞬間、必要不可欠な 最後の部品がカチッと連結したかのように指揮者は完成し、いよいよ その人間特性をいかんなく発揮するのである。
ハープ ハープ及びハープ奏者の独特なところは、先ずこの大変な楽器を 持ち運びする、という所に始まるだろう。 ピアニストでも何人かの特別な人は、演奏会ごとに自分の楽器を、 海を越えようが空を横切ろうが運び込むけれども、ハープ奏者の場合、 ピアノより繊細な部分のあるこのむずかしい楽器をしょっちゅう運び回っている。 私はハープに対する偏愛を持っているので、運搬の大変さは重々知りつつも、 作曲家として仕事を始めた初期の頃から、やたらとハープをレコーディングの 編成に入れてしまう傾向がある。何が好きかといって、地中海の浅瀬からつい さっきたちのぼって来た響きのようなアルペジオ(分散和音)のデリケートな その音色ほどミュージックの源流を感じさせるものはない。そこでついつい この楽器の底の方についている足の踏み替えペダルの難しさも忘れてシャープ (♯)系、フラット(♭)系かまわず書きまくってハープ奏者に苦情を言われる ことになってしまうのである。すいません。私はこの楽器がもっと(例えば ピアノのように)機能的なら……と思う事もないではないが、逆に機能性に 頼らずとも楽器と奏者が組み合わさって侘んでいるだけで存在感のある絵に なるところ、又ある意味での「割り切れない」ところが何かしらミュージック の本質と関係しているように思えて、このままそっとして置きたい気持ちに なるのである。
テューバ 私は、この楽器と奏者には忘れられない思い出がある。 初めてアメリカでL.A.フィルハーモニックを指揮した時、 私は自作のスコアにテューバの速いパッセージ(音の経過句) を書いてあって、それが果たしてうまくいくか心配だった。 そこでセッションが始まる前にテューバ奏者のところへ行って、 そっと聞いてみた。 「このパッセージは、テューバのためにはちょっと速すぎない?」 ところが彼はチラッとこちらを向いて、そのパッセージを (私の印象では)吹きながら「これのことか?」と言ったのだ。 私は彼が世界一のテューバ奏者といわれるロジャー・ボボ氏だ という事に気が付いていなかった。 「いや、いいんだいいんだ、HaHaHa」とか何とか言って 指揮台に戻ってセッションを始めたのだが、その三時間目の セッションでは、温かくも強力な金菅群のパワーに押されて、 私は実際に指揮台からうしろへ落ちそうになった。 この事を全体としてどうとらえていいのか、今でもはっきりわからない。 ひとつ理解した事は、テューバはメロディーを吹ける、それも軽快に吹ける 楽器であり、テューバ奏者は、口笛を吹くようにその楽器で歌うことも 出来る、という事だった。
トロンボーン この楽器を扱う時には、態度をはっきりさせねばならない、 と私は思っている。つまり、ジャズの演奏でよく使われる、 音をスライドさせながら吹くのを主とする演奏スタイルなのか、 またはオーケストラの演奏で精一杯盛り上がった時によく出て 来る、音程を固定させながら、三本揃って角張ったフレーズを フォルテッシモで吹く、というようなのを主な演奏スタイル とするか、そのどちらかに心的態度をはっきり決める、という 事だが、もちろん奏者はその両方をこなして悪い理由は何もない。 もっぱら書く方の心的態度の話である。 私自身は後者の方を大変好んでいる。 昨年バレエ組曲の新作を発表した時も、自然にそれが出た。 最後のクライマックスの盛り上がりで、もう弦も充分に歌った、 ホルン・木管の対旋律もくり返した、トランペットの晴れやかな フレーズも出た、さて最後のフォルテッシモが更に盛り上がる事 を要求している……そこで三本揃った例のトロンボーンが登場する のである。トウッティ(全合奏)を貫いてそれは、もちろん威風堂々の 幾分角張ったフレーズを吹くことになる。そしてそういう時の奏者を 見ると、「我が意を得たり」というような格調高いトロンボーン そのものの如き表情をしているのである。
トランペット 私は、リハーサルやレコーディングの最中に、あまりトランペット奏者と 話した記憶がない。 というのは、話さなくとも大体うまく行く事が多いからである。 この楽器に要求されるミュージック・イメージは概してはっきりしている。 あれこれ説明しなくとも、このトランペットというはっきりした楽器に 侵食された優れた奏者は、それを容易に感じ取るらしい。 何年か前、L.A. 近くのバーバンクのスタジオでレコーディングした時の事、 私は第一トランペットに、高い"C"(実音)をいくつも書いてあった。 そしてそれを、「スキップをするみたいに軽やかに吹いて欲しいなァ」と 内心望んでいた。 すると、そのL.A.フィルハーモニックのトランペット奏者は、 スキップしながら椅子に座った。 次に、並んだ他のメンバーと談笑しながら指揮棒の上がるのを待った。 そして、演奏が始まると、かすかに微笑さえ浮かべて、鼻歌のように それこそ軽やかに軽やかに全パートを吹いてしまったのである。 それは印象的には、吹き飛ばした、という感じだった。 「だから、心配することはないと言ったんだよ」 と、誰に言うともなく私はつぶやいた。
ホルン 「ホルン!」この何とも遥々とした響きの楽器は、その名を 口に出しただけで、あらゆる人の想像力をホルン的世界に 呼び込んでしまう。 誰もホルンと聞いて、露路裏や街の雑踏をイメージしないだろう。 電機店の前の安売り広告や満員電車の吊革、コミック雑誌や パブ・スナック・のれん街、そういうものに日々囲まれて 暮らしていても、「ホルン!」と一声その名を聴けば、 目前に広がるのは花咲く野原、冠雪をいただいた山々 (そういえばマッターホルンという山があったが)、 青空に浮かび漂う雲であろう。 事程左様に、この楽器の特性は、はっきりしている。 ミュージックの現場に於いても、この楽器は現在のところ、 ロックやジャズとクラシカル・ミュージックの境界点 そのものとなっている気がする。 ある時、深夜のスタジオでロック・グループ関係の方々と アレンジのミーティングをしていて、 ホーン・セクションをどうカッコ良くキメるか、ということに ついてワイワイやっていたところに、私は何を思ったか 「ホルン!」と言ってしまったのたっだ。 もちろん他の誰も、全くホルン的世界をイメージして いなかったのである。するとそこに、長い長い沈黙が生まれ、 そして横たわった。しばらくその沈黙は破れなかった。 事程左様に、この楽器の特性は、はっきりしているのである。 是非、これと一体化した奏者を想像していただきたい。
ファゴット(バスーン) 私は、ファゴット奏者を、基本的に善人だとみている。 もちろんこれも偏見である。何より先ずその音が正直者をイメージさせる。 「あざとさ」というようなものからは最も遠い印象の音である。 ドヴォルザーク作曲の交響曲第九番「新世界より」の第二楽章冒頭で、 「家路」という題で歌にもなっている有名なメロディーが出て来るが、 私にはその雰囲気が、全体にファゴット的世界というもののような気が してならない。一言で云えば、「アットホーム」なのである。 あるファゴット奏者は、初対面の私に、数枚の写真を見せてくれた。 大切そうに、そっと定期入れ(か何か)の中から一枚一枚取り出しながら、 「これが、ボクの親友の◯◯君」 「それからこれは、家族の写真…」とニンマリと頬をほころばせながら 説明してくれるのだが、その声、その表情はまさに「アットホーム」な ファゴットの音色を連想させるに充分なものであった。 前述のメロディーで実際にドヴォルザークは、イングリッシュ・ホルンの ソロで始まるその旋律に、クラリネットを加え、そして更にフレーズの 最後にファゴットの中・高音部を加えている。 その気持ちがよく解る気がするのは、私だけではないだろうと思う。 いずれにせよ、日々こういう楽器と共に暮らしている奏者は、 どう立ち廻ってみても、結局は悪い事の出来ない人である。 そして、アンサンブルに於いては、決して指揮者や他のメンバーの信頼を 裏切るようなとはしない(と私は決め付ける)。
クラリネット クラリネットは二面性を有している、という偏見を私は持っている。 その低音は、どちらかといえば不機嫌な、性格の暗そうな印象を与える。 しかるに上半分の音域は、どこかひょうきんで明るく、大変親しみ易いのである。 こういう楽器を毎日手にし、磨き、練習していると、奏者もやはり次第に 複雑な性格になって来る、と私はみている。往々にしてプライドは高い。 「三オクターブ半の音域があって、木管楽器の中で一番(音域)が広い」 とある奏者が誇らしげに私に語った。 しかし、「高音の方はフルートほどじゃないけどね」と自ら付け加えるのである。 淡い憂いを含み、幾分諦念の入り混じった様な、それでいてどこか気楽で陽気な、 何とも言葉で表現しにくい音色の楽器なのだ。 スウィング・ジャズのアドリブ・ソロやクラシックのクラリネット協奏曲等には、 この楽器の明るい面がよく出ている。 しかし、シャルモニーと呼ばれるその低音域には、たしかにほの暗い憂いに満ちた 別の性格が影のように現われるのである。 けれども陽気で……反面どこかメランコリックで…。
オーボエ オーボエ奏者は、錬金術師である。 そもそも、あのアシ笛の様な音の原因となっているリード (楽器に取り付けて口にくわえる細い板)が妖しい。演奏中も しょっちゅうそのリードをいじったり、舐めたりしているし、 やけに頻繁にそれを取り替える。まるで原野のアシを折って そのまま街に持って来て、現代の機能性の高い楽器に 差し込んだ様な印象を受ける。そしてその音色はといえば、 これは全く野原の素敵な笛なのである。 ある時演奏中に、オーボエ奏者に注文を出した。 その注文は「ヘビ笛の様に」というものだが、録音された テイクをプレイバック(再生)で聴いて驚いた。 この一流のオーボエ奏者は、作曲者の無茶な要望に、 本物のヘビ笛の音で応えたのであった。 以来私は思っている。 オーボエ奏者は、原野のアシ笛と一体化してそれを操る、 きわめて抽象的な音の錬金術師であるに違いないのだ。
フルート 昔ヨーロッパでは、王侯が好んでこの楽器を手にしたと云われる。 それでだかどうか知らないが、フルート奏者の心には王様願望が潜んで いるような気がして仕方がない。音域は3オクターブで、高みに登れば 登る程輝きを増し、木管楽器群(オーボエ、クラリネット、バスーン) の中ではアンサンブルに於いてリーダー的存在になり易い。 何年か前、スタジオで録音中に、ちょっとしたソロのメロディーを この楽器に割り当てたところ、演奏をし終えてOKサインが出た時に 「カッコイイー」と言って手をたたく者がいた。見るとそのフルート 奏者が連れて来たクラリネット奏者だ。「カッコイイー」はないだろう、 しかしここでも何らかの「社会」が形成されてるんだなアと思って 私も「すごくカッコイイー」と言って手をたたいておいた。 殆ど常に最高音を吹くこの楽器と奏者は、目立たなければならないのだ。 また一方でフルートは、いわゆる「日本的」なるものとミュージックとの 接合点であるような気もする。いわゆる「日本的」なるものとは何かと いうと、こうである。まず夕焼け空を背景に、短い着物を着た子供の シルエット、かわいい七つの子が待つ向こうの山影の方へ、カラスが 鳴きながら飛んでいく、見送る子供の足には下駄、手に持っているのは 横笛、夕暮れの木立の枝の間を吹き渡る横笛の音、その音がフルートの 音とオーバーラップする、というのだが、果たして奏者の心の中は どうなっているのだろうか…。
ピアノ フルネームはピアノフォルテ。 フォルテの方を省略してピアノと呼ぶので、一般に繊細な女性の指と 結びつけて想像されやすいが、現実はさにあらず。練習に明け暮れた ピアニストの指は、女性といえども先が丸くなってがっしりしている。 それに打鍵に伴う筋肉運動により、上腕部が発達してくる。優れた ピアニストの上半身は逞しい。だからといって心まで逆三角形かというと、 そういう訳ではなく、あくまでデリケート。そして孤独だ。 何しろソロ楽器なので、ひとりで充足し易く、質疑応答が右手と左手で できてしまい、 「ちょっと通していただけますか?」 「ああ、どうも気が付きませんで、さあどうぞ」 「ありがとう」 というようなやりとりを楽器と奏者で完結させて行くことになる。 奏者は自分だけの世界にのめり込みがちで、その結果、貴公子や プリンセスが量産されることにもなるのである。 私の学生時代の先生は、若い頃ウィーンで世界の一流ピアニスト群の ひとりとして活躍したロシア人で、188cmの長身にロマンス・ グレイの頭髪、ソフト帽とゆったりした仕立ての良いスーツ、 イタリア製のシューズといったスタイルで女子学生連中の憧れの 的だったが、神経が繊細すぎて演奏会ごとの緊張の連続に堪え切れず、 第一線を退いた人である。 その先生のレッスンを受けたある日のこと、グランドピアノの譜面立て の付いた台を後方に押してスライドさせながら、先生はこう言われた。 「君、これを後ろに下げるとね、その前に少し開いた空間が出来るだろう。 この隙間からね、音が良く聴こえてくるよ」 ナルホドそういうものなんだナア、と私は思ったが、よくよく考えてみると グランドピアノのフタは大きく開けっ放しになっているのである。 音は部屋中に響き渡っている。それでも、その隙間からピアノが プライヴェイトにささやきかけて来る、と言われる老先生に、 私はピアノというソロ楽器と殆ど一体化してしまった奏者の姿を 垣間見たのであった。
パーカッション 打楽器奏者は一般に「オレがこのスティックでリズムを決めているのだ」 というある種の仕切りたがり気質を持っている。 管弦楽や他のアンサンブル、いずれの場合でも、打楽器は主に「元気」の 要素を受け持っているので、ついついそうなりがちなのだ。 反面ウマが合うと万事好都合に事が運ぶように、何かと手助けしてくれる。 ある奏者(これは我等が楽団のパーカッショニスト)などは、 スタジオで録音が始まる前に、指揮台の横のメトロノームの速度や テンポ・ルバートからイン・テンポに戻る時の段取りまでテキパキと 用意してあって、こちらが「さて、ここでは…」と言い始めるとすぐ、 「あ、そこはこう行く事に決定しましたから…」と応じる。 おかげでレコーディング時間の延長というものを我等が楽団は経験した 事がない。 こういうふうに、この気質がうまく指揮者とハーモニーを奏でている間は、 頼もしくて大変良いのだが、一度そのバランスが失われると、一転して 大問題児となる。 L.A.で私はある奏者を観察した。まず鼻がやや上向きになる。 指揮者を「フフン」とその鼻で笑う。宇宙の秩序と構造を破って、 一発大逆転を企む。その不自然な心的態度のために、自分でも訳が 分からなくなって来る。こういうタイヘンな事態にならないように、 アンサンブルをまとめる者はよく注意し、心を配る必要がある。 もっとも、ジャズ・バンド等で、打楽器(ドラムス)がリーダーである場合、 全く問題はない。大専制君主国家的楽団が、めでたくそこに出来上がるだろう。
コントラバス この楽器の奏者には、ご承知のように、ジャズ系とクラシック系の 二系統がある。しかしその両者には共通した態度がある様に思える。 「やや控え目」という言葉がそれに当たるかも知れない。それでい て自分がアンサンブルの重要な部分を支えているのだという「自負」 もある。この二律背反するかの如き両方の性質を混在させているの がベーシスト(ベース奏者)だ。その矛盾は随所に現われる。 例えば演奏中は比較的余裕を持っていられるが、楽器を運搬する段 になると大きいだけに気を揉む事になる。また、リーダーという ポジションではなくとも、楽器の出す落ち着いた低音と、アンサン ブルを支えるその役割上、何かと頼りにされやすく、同時に放念 されやすい。「ああ、あの人のところはゼンゼン問題ない。ほっと いても大丈夫だから…」というふうに。 ある時、我々の楽団が野外コンサートに出かけた折、新入りの女性 パーカッショニストが一緒だった。彼女は若干22才、車には若葉 マークを付けている。当然皆の注意はそちらに集中、「おい、 ちゃんと後ろについて来てるか? 車間距離、大丈夫?」その時、 我々の車と彼女の車の間にスッと割り込んできた車があって、 「なんだいあの車、わかんなくなっちゃうじゃない」等々非難轟々。 ハッと気が付くと、それは我等がベテラン・ベーシストの車だった。 つまり、誰も彼の心配を、はっきり言って全くしていなかったのである。 期待されるコントラバス的人間像は以上の様なものである。 ここでも、楽器は奏者を、ジワジワと侵食しているのだ。
サクソフォーン 通例サックスと呼ばれるこの曲線的なイメージの楽器は、 ジャズ及びポピュラー音楽において、休むヒマなく登場 させられる運命にある。人声に似た柔らかな、そして艶やかな 音色。ドラマ性を容易に表現する優れた機能性。 これだけ揃えば、酔っ払いがしゃくり上げるような演歌の 間奏から、血走った眼球が飛び出るかのようなジャズの ハイ・テンションのソロまで、何でもOKである。 そしてこの楽器のイメージは、あくまでも曲線的な形体をしている。 しかし、私はあえてクラリネットのように真直ぐな形をした ソプラノ・サックスにこだわりたい。その音色は少年の日に はだしで駆け回った原っぱに吹く風のようだ。 何年か前、ロス・アンジェルスのスタジオで録音していたときの事 だが、時間になってもソプラノ・サックス奏者だけが来ない。 ブース(各楽器及び楽器群ごとに分かれて入る小部屋)を覗いてもいない。 二度、三度、そして何度目かにブースを振り返った時、彼は突然そこにいた。 長髪を肩までなびかせ、ジーンズにプリント入りのTシャツ、そして 裸足でニッと笑って座っていた。それ以来、私のこの楽器と奏者についての イメージはほぼ定まったのである。 とはいえ、サクソフォーンは比較的歴史の浅い楽器なので、まだまだ 奏者達の浸食され具合もそれぞれ十人十色、百人百様、千差万別である。 何しろ、かのソプラノからアルト、テナー、更に特大のバリトン・ サックスまで同じ奏者が「持ち替え」をやったりするのだから、 その関係性を見極めるまでは(なかなか)油断がならないのである。
チェロ ヴァイオリンとヴィオラまでは奏者が腕に抱いているのに 比べて、チェロは地面から直立している。楽器がより前に 出て来て、己れを主張しているような印象を受ける。 「独立独歩」、基本的にそういう雰囲気が漂っている。 私はチェロ、特にケースに入ったチェロを見ると、大きな カブトムシを連想してしまう。その性質が奏者に乗り移った か、チェリストにはどこか押しの強い人が多い。押しが強いか、 さもくば、回りを無視しているかのような立ち居振るまい。 しかし一方で、これほど人間的な音色を持つ楽器も少ない。 音域も広く、深みのある充足したその音。その楽器が要求 しているのは「偉人」である。これでは奏者もたまったもの ではない。御健闘を祈るばかりだ。
ヴィオラ この楽器の奏者には、ゆっくりとした人が多い。アンサンブルでは 常に派手なヴァイオリンとチェロに挟まれて内声を受け持つ役回り なので、何事につけガマンを強いられるせいか、それに堪えられる のんびりした性格が要求されるのかも知れない。しかし私は、 ヴィオラ及びヴィオラ奏者が、一癖も二癖もあることを知っている。 友人のヴィオラ奏者はカラオケがうまい。彼はL.A.フィルハーモニック という世界有数のオケに所属しながら、カラオケに通い、日本の歌 謡曲を熱唱して、その店のカラオケ・チャンピオンになってしまう のである。確かに良い声で、私の聴くところその声はヴィオラの 音色に似ている。何やら妖しげである。屈折・抑圧といったものを感じる。 本人は「オレはネクラだ」と言っているが、私にはそれがヴィオラの つぶやきのように聴こえてしょうがない。やや鼻にかかった声で 「ウーン、ブツブツ、ウーン、ブツブツ」と言っているのである。 思うに、ヴァイオリンのクライスラーやチェロのカザルスの如き 圧倒的な名人が、この楽器には音楽史上出なかったというのも、 その性格形成の上で大きな要因になっているのではないか。 とにかく、くぐもっている。しかし私は、この楽器が、アマービレ と言う楽語とともにソロの旋律を与えられた時に歌い出す、夢見る ような音色を知っている。皆さんにも是非御注意願いたい甘美な音色 である。という事は、この楽器に侵食された奏者達は、 ロマンチストだらけという事である。
ヴァイオリン これは、値段の高いものになると、数千万円、時には数億円もするのがある。 我が楽団のコンサートマスターは、家を買う金でそういうヴァイオリンを 買ってしまった。その手のヴァイオリンは確かに、ある種の魔力を持った楽器だ。 三百年も鳴り続けて、それでも艶とハリを失わないどころか、ますます音に 磨きがかかって美しくなって来るなんて事が、だいたいからして普通ではない。 これは「タダモノではない」のである。当然奏者はその侵食を受ける。 我がコンサートマスターも例外ではない。打ち合わせの際、テーブルの 向こうの二つの椅子に彼とそのヴァイオリンが並んでいると、 時々どちらに話しかけようか迷う事がある。会うと三度に一度は、 ケースを替えたとか、弓の毛がどうとか言っている。 そしてそのケースの中には、こまごまとした手入れの道具が揃って 入っているのである。もちろん車の中などに楽器を残していかないし、 たまに楽器を持っていない時に会うと、どこかしら軽やかで表情まで明るい。 いかに彼が楽器に支配されていてるかお解りいただけたと思う。 それでいて「弦の連中は音域が下に(→ヴィオラ→チェロ)行く程、 変わりものが多い」とか何とか言っているが、私には、彼のヴァイオリン がそう話しているように思われるのである。